2015/11/15
YMOTOHASHI
ティーガーという戦車がありました。第二次世界大戦中のドイツで、ヒトラーの命によりポルシェが開発したティーガー戦車ですが、エンジンで発電してモーターで走る戦車だったんです。ヒトラーの評価ははじめ不採用でしたが、後に大評価となった名戦車です。見てみませんか?
『ティーガー』とは、正式名称を「VI号戦車ティーガー (P)(VK4501 (P))」といい、第二次世界大戦中のドイツで開発された戦車のことで、ポルシェが開発していたんです。
ティーガーI
今回は、そのポルシェ・ティーガの開発から実践への投入秘話、評価まで調べてみたいと思います。
今さらでしょうが、ティーガーを作った『ポルシェ』というのは、皆さんご存知のドイツの自動車メーカーのことです。
本社はドイツ南西部のシュトゥットガルト。高級スポーツカーとレーシングカーを専門に開発・製造していて、中でも1963年に発売されたスポーツカー「911」は改良・改名を重ねながら今でも製造・販売されています。
ポルシェ911
『ポルシェ・ティーガー』は車体と砲塔から構成されています。
ティーガーの車体はIV号戦車の守旧的な構造を引き継ぎ、T-34のような傾斜装甲や曲面化された装甲形状を持っておらず、運転手席と無線手席の前面はほぼ垂直に立っており、車体・砲塔の前側面も垂直構成です。
ただしティーガーのデザインは単純な四角の箱型でなく、角に当たる部分は装甲板が面取りのようになっており、全体的には八角になっていて、砲塔も筒状でした。
ティーガー戦車の砲塔は車両半分より少し前に配されており、砲塔の形状もヘンシェル社製のものと異なり、操砲時の俯角をとるため、中央部分に突起したクリアランスが設けられていました。
ポルシェ・ティーガー重戦車
ティーガーの大重量から、開発者であるポルシェ博士は機械式操向装置の信頼性を危ぶんでおり、独創的な電気モーターによる駆動を試みました。
ティーガーの動力源である電力は、空冷ガソリンエンジン2基によって供給され、電動なので変速や操向の際のギアの入れ替え、複雑なステアリング装置が全て省略でき、かわりに電力の流量を調節するだけで無段階変速や操向が可能になりました。
しかしティーガー重戦車を動かすには、巨大なエンジンと巨大なモーターが必要となり、この総体1.5tの荷物を収める結果、車体の後ろ半分はまるごと機関室となっていました。このため砲塔は車体上面の前寄りに配置されている訳です。
また、ヘンシェル社製のものと比べると、ポルシェティーガーはモーターを搭載するぶん全長が約1メートル長く、全幅と全高は少しずつ低い洗車としては好評価な構造となりました。
ティーガーは、出力ロスの多いモーター駆動のために、最高速度も3km/hほど低かったようです。
電気駆動を採用した結果、機関室が大型化し、また空冷ガソリンエンジンの出力は不足しているという評価を得てしまっていました。
このティーガーほどの巨体を動かすには相当大きな電力が必要でしたので、平地の走行実験では電力を供給するコードが焼け、エンジンから煙が出るなどの悪評価を得る結果となったそうです。
ティーガーは、車体中央にエンジンを並列に配置、後部に2機のモーターを横置きとしていましたので、後輪駆動でした。
しかしティーガーに搭載した空冷エンジンは開発当初から問題との評価があり、発電能力の不足やエンジン過熱によって頻繁に故障し、開発中の不整地走行では、VK3001(P)から有線にて電力を供給されて動く有様でしたし、発電機による電磁的なノイズがひどく、無線通信が難しかったとの評価をつけられました。
このように、あまり評価の良くない『ポルシェ・ティーガー』でありましたが、既に生産されていた車体を流用したエレファント重駆逐戦車を運用した部隊からは、ギアチェンジが無用である操縦性の評価は悪くなく、また変速機に関するトラブルが少なくなったとの高評価を報告しており、大戦中のドイツ戦車でよく問題となった変速機のトラブルが解消ないし軽減する点ではポルシェ博士の方向性が間違っているとは言い切れないこととなっていたようです。
一方運用に関しては、『ポルシェ・ティーガーI』は、主要な敵戦車であるT-34、M4中戦車、チャーチル歩兵戦車を1,600メートル以上の遠方から撃破でき多との評価が記録されています。
ティーガーI の操縦機構は操作しやすく、当時使用されていた戦車の中では先進的なものでしたが、本戦車は全体としては機械的に欠点がないとは言い難いとの評価が多かったようです。
とは言え、当初月産25輌のティーガの生産ペースは、1944年4月には月産104輌まで増加していったのでした。その評価の高さが知れます。
そして、1942年8月に始まった『ポルシェ・ティーガー』の生産は 、1944年8月の生産終了までに1,355輌が生産されました。
やはり大評価だったのですネ・・・・!
ティーガーの始まりは、フランス戦で遭遇したルノーB1やマチルダII歩兵戦車などの連合軍重戦車との戦訓により、III号戦車、IV号戦車の搭載する短砲身砲が、イギリス、フランスの戦車を撃破するには非力なことは明白となり、アドルフ・ヒトラーはこの貫徹力性能の不足に不満との評価を持ったため、1941年5月26日新型戦車開発の命令を下したとされています。
実際に製作された車両は1942年4月20日のヒトラーの誕生日に、ラステンブルクにおいてヒトラーの前でポルシェ社ティーガーとヘンシェル社ティーガーIが、比較・評価されました。
ポルシェティーガ―は、故障の多かった変速機を省略するため、ガソリンエンジンで発電してモーターを駆動する電気駆動方式を採用し、サスペンションも外部にトーションバーを配置する簡易と評価されるような設計でした。
ヒトラーの評価としては、大変興味を持つものでありましたが、モーターには不足していた銅を大量に必要とするためもあって、堅実なヘンシェル案が採用されました。
ポルシェティーガーの一応の期限は、前述したとおり1942年4月20日であり、この日にはヒトラーの評価・査閲を受けるため完成が目指されていました。しかしエンジンが完成して届いたのは4月10日であり、列車で運ぶ途中にも必死で溶接作業をし、やっと完成して到着したものの、満足に行動できないという状況で、前述の評価結果となったのでした。
この走行デモンストレイションでは明らかにヘンシェル社のVK.45.01(H)の方が高い性能を示したと評価されましたが、ヒトラーは相変わらずポルシェ社のVK.45.01(P)を高評価しており1942年9月末までに60両、1943年2月末までにさらに135両のVK.45.01(P)を生産することを要求しました。
実際この時期、すでに前線からの新型戦車の要求は切迫していました。
ヒトラーはVK.45.01(P)が空冷エンジンを搭載しているという評価から、最初の生産分を北アフリカ戦線に送ることを要求していました。
ポルシェ博士は1942年5月12日にはVK.45.01(P)の生産型評価第1号車を軍に引き渡すと約束しており、生産ラインの準備はすでに着々と進んでいました。
このためVK.45.01(P)は、ろくに試験もしないうちにすぐに量産が開始されましたが、事は順調には運ばず問題が続出したため、第2号車体が完成したのは1942年6月のことで、同年9月の段階でもわずかに5両が完成したに過ぎなかったのです。
その上、1942年7月にツォッセンのクンマースドルフ車両試験場で行われたVK.45.01(P)の試験結果は散々の評価でした。
この時は改良に3カ月の猶予が与えられたものの、改善はほとんど不可能で、このため1942年10月末、VK.45.01(P)にはさすがに見切りが付けられ制式化は見送られました。
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